| 脱原発とは原発に依存しない社会を目指すと言う事です。矢張り原発は飼い慣らせなかったのです。一旦事故を起こすと社会的なコストが高すぎて科学技術の範囲をあっと言う間に越えてしまう存在です。同じ科学技術の発想でなら原発以外の技術を積極的に開発すべきなのです。原発は既に破綻した技術である事を認めなければならないのです。結果は出たのです。にも拘らず原発にしがみつく議論は知恵の働かせどころが全く違うと言わなければならないと言う事なのです。原発事故の当事者、被害者も含めた議論が必要の筈なのに、既存の組織内化された議論しか出来ない事が日本における秩序優先の考え方の限界です。問題を中心に据えて正しい組み換えをしなければ解決には至らないと知るべきなのです。民主主義は単なる多数派形成ではないのです。議論を正しく進めて行く為の技術でもあるのです。ですから、既に、社会的に矛盾を共有しているにも拘らず、矛盾がない筈だとの議論の立て方は蒸し返しと取られても致し方ないと考えるべきなのです。 |
| この社会は原発推進派の独占物ではありません。原発を脅威に感じている人達もいるのです。原発推進派はいったい原発事故をどう責任をとっていると言うのでしょうか?学問、専門領域の陰に隠れて責任を取らないまま推進だけはしようと言うのでしょうか?それも社会的には可笑しな話です。 |
| 原発事故の実態を理解していない事は推進派に傾く可能性がありますので情報共有は必要です。と言っても情報共有の同質性は保証されている訳では無いので、同じ土俵で議論されると言う事は難しいですが、あまり被害実態に無知であるのは推進派に傾く可能性が高くなるので具体的な被害実態を見乍らの議論は最低限必要と思います。 |
| 主義主張、政治的主張、嗜好の前に我々には生存権が掛かっているのだと肝に命じなければならないと切実に思います。福島住民、更に日本国民の命、生存が危険に晒されているのだと言う事を自覚出来るかに掛かっていると思います。 |
| 原発推進論者の議論には私は思い上がりを感じてしまうのです。事故を起こしても何とかなるさと、原発には依存しなければやっていけないんだと言う考え方です。原発推進論者の内輪だけの議論ではないのです。多くの国民を巻き込んだ議論であり、多くの住民に現に被害を与えている、乃至は与える可能性が高い代物だと多くの人が気付き始めているのです。科学者がもう手に負える事ではなくなって来ているのです。それを科学者が原発を手懐けるだろうと議論を誘導するのは往生際が本当に悪いです。だから、保守政治家の中にも脱原発派が出て来てハンドルを奪ってでも方向を変えようとしているのです。 |
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